「人とは違うあべこべの人生行路を、こけつまろびつ、歩んで来ました」築100年の古民家を持つ岩下尚史さんの理想の住まいとは
新橋演舞場の社長の名代として若くして東京花柳界に身を置き、明治・大正生まれの名妓と直接触れ合ってきた作家の岩下尚史さん。成功した紳士の嗜みを20〜30代で身につけた岩下さんは、同世代と比べると、かなり浮世離れしていたそうです。インタビュー前編では、新橋演舞場を退職して以来、生きるための実学を身につけるのにかなり苦労したというお話も。
作家業のみならず、現在はテレビやラジオに引っ張りだこ。TBS朝のワイドショー『いっぷく!』ではMCを務め、『グランメゾン東京』や『真田丸』といったドラマの出演オファーをされることも。多才な岩下さんはテレビ出演以来、人生をどのように歩んでいたのでしょうか。後編では、Instagramで日々の生活を紹介しておられた青梅での古民家暮らしや、老後についてのお考えも伺ってきました。
目次
- 1 「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために」43歳から“シス・カンパニー”の裏方として再スタート
- 2 わずか1ヶ月で書き上げた著書『芸者論』が「和辻哲郎文化賞」を受賞
- 3 北村社長が各局から番組を厳選。そして、安住紳一郎アナとの共演
- 4 TBSの“朝の顔”に抜擢。国分太一さんとの司会は人生一番の修業
- 5 梅の花を求めて訪れた国民作家・吉川英治ゆかりの地・青梅での出会い
- 6 「買います!」不動産を衝動買い。築100年の古民家をフルリフォーム
- 7 青梅に移住して10年。「私の書斎で一緒に暮らしています」愛犬・綱切丸くんとの出会い
- 8 景色が良すぎて、ちっとも筆が進みませんね(笑)
- 9 居心地のよい場所を求め続けます。お目出たくなる前に、少しはマシなものが書けるかも知れません
【インタビュー前編はこちら】「お前さんに教えておくから、あとを頼みますよ」幼少の頃から“憧れた世界”の終焉、戦後育ちの台頭した“平成の喪失感”
目次
- 1 「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために」43歳から“シス・カンパニー”の裏方として再スタート
- 2 わずか1ヶ月で書き上げた著書『芸者論』が「和辻哲郎文化賞」を受賞
- 3 北村社長が各局から番組を厳選。そして、安住紳一郎アナとの共演
- 4 TBSの“朝の顔”に抜擢。国分太一さんとの司会は人生一番の修業
- 5 梅の花を求めて訪れた国民作家・吉川英治ゆかりの地・青梅での出会い
- 6 「買います!」不動産を衝動買い。築100年の古民家をフルリフォーム
- 7 青梅に移住して10年。「私の書斎で一緒に暮らしています」愛犬・綱切丸くんとの出会い
- 8 景色が良すぎて、ちっとも筆が進みませんね(笑)
- 9 居心地のよい場所を求め続けます。お目出たくなる前に、少しはマシなものが書けるかも知れません
目次
- 1 「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために」43歳から“シス・カンパニー”の裏方として再スタート
- 2 わずか1ヶ月で書き上げた著書『芸者論』が「和辻哲郎文化賞」を受賞
- 3 北村社長が各局から番組を厳選。そして、安住紳一郎アナとの共演
- 4 TBSの“朝の顔”に抜擢。国分太一さんとの司会は人生一番の修業
- 5 梅の花を求めて訪れた国民作家・吉川英治ゆかりの地・青梅での出会い
- 6 「買います!」不動産を衝動買い。築100年の古民家をフルリフォーム
- 7 青梅に移住して10年。「私の書斎で一緒に暮らしています」愛犬・綱切丸くんとの出会い
- 8 景色が良すぎて、ちっとも筆が進みませんね(笑)
- 9 居心地のよい場所を求め続けます。お目出たくなる前に、少しはマシなものが書けるかも知れません
「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために」43歳から“シス・カンパニー”の裏方として再スタート
──中々世間とは違ったお仕事をされ浮世ばなれされていたという岩下さんは、新橋演舞場を辞められてからはどんなお仕事を?
岩下尚史(以下、岩下) 何の計画も無しに辞表を出した私を心配した演舞場のお客様が、「相談に乗るから、今夜、銀座のクラブで会おうよ」とおっしゃるので、当時よく遊んでいた先代の團十郎(十二代目市川團十郎)さんを誘って席に就きますと、「ところで、あなたは何か資格があるンですか」と。
お客様ではなく、横から、團十郎さんが言うンですよ(笑)
ちょっと癇に障りましたが、実際、何もないので悔しまぎれに「千家流のお許しは持っています」と言うと、透かさず「明日から、岩下さんにお茶を習うひと?」と團十郎さんがおっしゃり、3人のホステスさんが手を挙げたので、コレだということになりました。
そのあと團十郎さんと銀座をハシゴして、8人のお弟子が集まりましたので、彼女たちに私の生活費を八等分させて、三軒茶屋のマンションで茶の湯の手ほどきをしながら、自分では新橋の老妓たちに託された滅亡寸前の宮薗節という古曲の稽古をしていました。
そんな永井荷風気取りの隠居ぐらしをはじめて三年目に入った頃、シス・カンパニー(舞台製作も手がける芸能事務所)の北村明子社長から、「何をなさっているの、会いませんか」とお電話を頂きました。
北村社長とは女優の波乃久里子さんの御紹介で、一度か二度、三人で食事をしたくらいでしたから不思議でした。
北村社長のお嬢さんが当時、能の御稽古をなさっていて、私も閑でしたから、よく能楽堂で行き合っていたんですよ。それで、「あの人、昼間から御能なんか見てるから、今、何もしていないわよ」とお聞きになったんでしょうね。
そんなわけで、おそるおそる、御指定の場所へ出向いたのでした。
挨拶が済むとすぐに、北村社長が「あなたにはリアリティを感じられないわ」とおっしゃったのには驚きましたが、でも、それはそうだな―と納得もしました。「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために。文芸部を会社に作るから」と。
そこから2年半、シス・カンパニーに御厄介になったのですが、もう耐えられなくて(笑)。
芝居を作るのに、こんなに手間がかかるんだと、びっくりしてる私を見て、社長もびっくりしていました(笑)
──どうしてそんなにお仕事が辛かったのですか?
岩下 当時は自分から進んで仕事をするということが、まったく、分かっていなかったんです。
当時、四十三にもなっていたのに、恥ずかしいですね。なにしろ、新橋演舞場では、岡副社長の秘蔵ッ子のような立場で、言いつけどおりに、きれいに御用を足せば褒められていましたから。
それに私は松竹の社員ではなく、劇場側の社員でしたから、芝居には関わっていないんですよ、偉そうな顔をして見ていただけで。
ですから、制作会社であるシス・カンパニーに入ったら、あちらこちらの劇場を借りて、出演者はもちろん、大勢のスタッフもその都度集めて、宣伝をして、切符を売って、本当に冗談じゃなく、芝居ひとつ作るのに、こんなに手間がかかるんだと思って、びっくりしました。
びっくりしてる私を見て、北村社長をはじめ、ほかの社員たちもびっくりしていましたよ(笑)。
──会社ではどんな役職だったんですか?
北村社長が文芸部を作ってくださいましてね。でも、台本に手を入れることなんか滅多にないから、制作チームの一員として、モギリから、楽屋に贈られる花の処理まで手伝いました。
当時の私はバカですからね、それを屈辱に思うあまり、身も心も固まりましてね、それこそ手も足も出なかった。
当時のシスは社長以下全員女性で、彼女たちがテキパキと自ら進んで物事を運ぶなかで、中年のオヤジである私だけが、どうしてよいのか分からずに、呆然と立ちすくんでいたという有様でした。
北村社長が選んで、堤真一さんや大竹しのぶさんたちが取り組んだハロルド・ピンターやシャーロット・キートリ―などの現代演劇は、それまで大劇場の芝居しか知らなかった私にとって新鮮でしたね。
目を瞠る思いでしたが、そこで私が何をするべきか、全く分からなかったんです。
そうして二年半を過ぎたとき、社長が事務所を出て帰るエレベーターの扉がスーッと閉まる間際に、「辞めさせて頂きます」と声を掛け、立つ鳥あとを濁したわけです。今から思えば拾って頂いたくせに、まったく失礼な話ですよ。
「江戸から現代に至る東京花街の歴史を書いてみませんか?」
──退職後は生活にもご苦労があったのでは。
岩下 そう、貯蓄もありませんのに、三軒茶屋のマンションの家賃も払わないといけないし、親に仕送りしないといけないし。
それで机の周りを整理してみたら、雄山閣っていう学術書専門の出版社からの企画書が見つかったんです。封を開けたら、「江戸から現代に至る東京花街の通史的な本がないから、書いてみませんか?」という内容でした。
それでね、私は新橋演舞場に勤めていた頃、社長に命じられて「新橋と演舞場の七十年」という社史の編纂をしました。
その時に明治大正生まれの「五郎丸」「まり千代」といった新橋一流の名妓たちに取材した録音とか、日記とか、写真とかの資料を譲り受けていましたので、あ、これなら書けると思って(笑)。
なにしろ、大学の卒業論文以来ですから、二十年ぶりに筆を執りました。それで出版の際には帯を小説家で、『東をどり』の作者でもあった平岩弓枝先生から頂戴して書店に平積みになったところ、それが運よく、哲学者の梅原猛先生のお目に留まり、「第20回和辻哲郎文化賞」を頂戴しまして、両先生の御推薦で日本文藝家協会の会員になったと云うわけで。
※東をどり=大正十四年以来、新橋芸妓の稽古の成果を新橋演舞場の舞台で披露する舞踊公演。
わずか1ヶ月で書き上げた著書『芸者論』が「和辻哲郎文化賞」を受賞
──最初の本ですから、書くには相当なご苦労があったのでは?
岩下 来月再来月の支払いをしのぐため、ひと息に書きましたからね。およそ一か月で筆を擱いたことを思い出しますが、今ではあの時のような元気も意力もありません(笑)。
それまで文章を作る修業もせず、先生も持ちませんから、かえって怖いもの知らずの我流だったのが好かったのかも知れません。
あの処女作は、折口信夫の「女房文学から隠者文学へ」という和歌についての論文に示唆を得て、あまり悩まずに書いたことを思い出します。
それと、あれほど辛くてならなかったシス・カンパニーで学んだことが、本を書くようになってから助けられましてね。当時の同僚たちの仕事ぶりを見よう見まねで、新刊を手に新聞社を廻って自己紹介したり、書店を訪ねて挨拶したりして。
まったく無名の著者でしたのに、書評も多く掲載して頂き、書店でも目立つところに置いて下さいました。和辻哲郎文化賞も、そのおかげだったかも知れませんね。
そう思うと、リアリティの無かった私を、「修羅場のような演劇制作の現場」で甘やかさず鍛えて下さった北村明子社長は命の恩人であると感謝しています。
大げさでなく、新橋演舞場を辞めて、あのままだったら、今の歳まで生きて来られたかどうか、わかりませんもの。
北村社長が各局から番組を厳選。そして、安住紳一郎アナとの共演
いま考えますと、私は國學院を出た二十代から三十代にかけて新橋演舞場の岡副昭吾社長に、それこそ手取り足取り、芝居はもちろん、邦楽舞踊の味得の仕方、和装洋装の仕立てと着こなし、美術品の見方ではなく買い方と飾り方、料理の誂え方に祝儀の出し方、芸者はもちろん銀座のママの良し悪しに至るまで、功成り名遂げた老境の紳士の心得を学びました。
そして、四十の初老を迎えてからはシス・カンパニーの北村社長に若い頃に鍛錬すべき現場仕事の苦労と喜びとを教えて頂き、苛酷な現実社会のなかで地に足を着けて生きることを学んだおかげで五十の坂をこえた頃、どうやらこうやら、人並みには暮らしていけるようになりました。
そう考えると、多くの人たちの道のりとはあべこべの人生行路を、よちよち歩きで、こけつまろびつ、あゆんで来たんでしょうね。
──岩下さんのテレビ出演のきっかけは?
テレビ出演はね、シス・カンパニーの文芸部を辞めて、『芸者論』を出して何冊目かを出した頃ですから、五年くらい、経っていたと思います。北村社長からお電話がありましてね、「今度、『怪異談牡丹灯籠』を出すんだけど、時代考証をお願い出来ますか?瑛太君の初舞台よ」とお誘いがあり、一も二もなく、駆けつけました(笑)。
それがきっかけで、ときどき、北村社長と会うようになって、いきなり、「テレビに出ましょうよ」と言われ、なにもわからないまま、テレビ局に向かうことになったわけです。
それが今から14年前ですから、数から言えば、ずいぶん出ましたよ。最初の頃はたけしさん、タモリさん、さんまさん、安住紳一郎さんが司会をなさる番組に呼ばれることが多かったですね。
当時の私はテレビ業界のことなど何も分からずに出ていましたが、今から思うと、北村社長が私のために、各局から問い合わせのあった番組を厳選なさっていたことが分かります。
と言うのは、今も街で見知らぬ方から「御出演なさったテレビを見ましたよ」と声を掛けられる場合、『ぴったんこカンカン』や『タモリ倶楽部』の番組名をおっしゃるんです。ずいぶん前のことなのに、よほど印象をお持ちなんだなと不思議に思うくらいです。
TBSの“朝の顔”に抜擢。国分太一さんとの司会は人生一番の修業
そうしたバラエティや情報番組のみならず、大河ドラマや日曜劇場にも顔を出したりもしましたが、私としてはTBSの朝の帯番組の司会を国分太一さんと御一緒したことが、人生一番の修業になりました。
──岩下さんの人生の中でも転機になる出来事だったのですね。
あのときは下手でしてね、今も当時のスタッフと会うと必ず、「ごめんなさいね、出来損ないで」と謝るほどですが、月曜から金曜まで1時間半の生放送に立ち会ったことは大きかったですね。
その後はテレビに限らず、どんな場所に出ても、また何があっても平気になったことは私にとって収穫でした。番組の関係者には御迷惑を掛けましたが(笑)。
その番組が終わった時ですから、10年前になりますか、関西地方から講演の依頼があると、当日の前後に必ず、京都駅からJR奈良線の玉水、棚倉、上狛、木津あたりの片山里を一人で歩くようになりました。
京都の南山城の風光に惹かれ、古寺めぐりをしたわけですが、あたりに点在する古民家のおもむきにも見惚れ、「いいなあ、住んでみたいな」と思うようになったのは、還暦も近くなっていたからかも知れません。
(岩下尚史さん Instagramより @iwashita_hisafumi)
梅の花を求めて訪れた国民作家・吉川英治ゆかりの地・青梅での出会い
そんな或る日、当時住んでいた三軒茶屋のマンションで連載中の原稿を徹夜で書き上げ、シャワーを浴びて寝ようとしたとき、「雛の節句も近いと言うのに、今年は未だ、梅の花を観ていないじゃないか」と心付き、部屋を飛び出して始発の電車で青梅市に向かいました。
なぜ、それまで行ったことのない青梅市だったかと言えば、新橋演舞場に勤めていた20代の頃、吉川文子(吉川英治夫人)さんが年に何度か御見物にお出ましになりました。
そうした社長関係の御客様の案内に出るのは私で、お食事を差し上げるのでしたが、「宅の近くの公園は梅の名所で、花の咲く頃は仙境ですから、どうぞ、お遊びに」と仰有って頂いたことを二十数年ぶりに思い出したというわけです。
三軒茶屋から幾つか電車を乗り換えて、青梅市の梅の公園に着いて驚いたのは、その前年に流行った梅の木のウイルス感染を堰き止めるため、公園の梅がすべて伐採されていたことでした。
それでも公園から眺める四方の景色はまさに仙境に見え、これが同じ東京であるかと感慨に打たれた私は、近所の人らしい、犬を連れた奥さんに「木造の古い家の売り物があったら知らせて下さい」とメールアドレスを渡したのは、当時、ひとりで古寺めぐりをしていた南山城の風光に似かようものを、関東の青梅の山里に感じたのかも知れません。
その足で、ありし日の吉川文子さんが館長をつとめられたと聞く吉川英治記念館を訪れますと、屋根裏で養蚕を営んだ豪農の屋敷の古美を残しながらも、近代的な数寄屋風の改良を試みた国民作家の工夫の跡が偲ばれる名建築です。
手入れ行き届いた庭の風致をながめながら、これこそ文人の住むべき理想の家居であると感に打たれたことでした。
(岩下尚史さん Instagramより @iwashita_hisafumi)
上京して35年目にして、ようやく辿り着いた理想の場所
戦禍を避けて疎開の地に選んだ吉川英治が、敗戦後も都心に戻らず、名作『新平家物語』を連載するために籠ったという書斎を拝見したときには、めずらしく真面目な心持になりました。
私のような不才の戯作者でも、このような住居を得たならば、少しはマシなものが書けるのではないかと、途方もないことを思ったことをおぼえています。
まもなく、その奥さんから連絡があり、指定されたJRの無人駅に降り立ちますと、崖下に多摩川の清流を望む絶景を見て、はやくも私の心は決まったも同然でした。
駅から歩いて3分も掛からぬ、青梅街道沿いの高台の「500坪の敷地に建つ100坪の家」は、見かけたところ明治の頃の瓦葺きの民家であり、厳めし過ぎず、さほど鄙びてもおらず、東京の西片町にでもありそうな、ごく尋常な木造であるところが気に入りました。
東南の斜坂を自然のままの野色となし、どの部屋からも青梅丘陵のなだらかな稜線を望むことが出来、その裾模様のように銀色に光るのは多摩川の溪流でした。
折しも青葉若葉の季節でしたから、屋内にまで緑蔭が輝き、都会では聞くことの出来ないが啼いた時には、ああ、上京して35年目にして、ようやく理想の場所に辿り着いたと思いましたね。
引き戸を開けて入ると、奥は廃屋のようでしたが、立派な檜の式台に土足を掛けて透かしみると、六畳の茶の間に、十畳の座敷の二た間続きで、嫌味のない堅実な床の間の脇には時代の付いた板戸が嵌まり、天井も鴨居も地元の材木屋さんの住居らしくも良ければ普請も確かでした。
鉈でった黒光りのする角柱などは、英国のハーフティンバー様式を思わせる味がありました。
(岩下尚史さん Instagramより @iwashita_hisafumi)
「買います!」不動産を衝動買い。築100年の古民家をフルリフォーム
それに対して「玄関脇の八畳」は、地元の宮大工に増築させたと言うだけあって、格天井も高々と、三方にぐるりと付書院風の棚をめぐらしているのが私を喜ばせ、『買います』と持ち主を振り返り、その夜のうちに半金を振り込んで、大いに満足した次第です。
それを聞いた私のまわりのアタマの好い人たちからは、不動産を衝動買いするのはバカだと叱られたり、嗤われたりしたものですが、私の経験上、バッグでも着物でも、ひと目で気に入って買ったものほど、ながく飽きずに遣って来ましたから、今度も間違いはないと自分を疑うことはありませんでした。
──お住まいを決められた何か特別なポイントがあったのでしょうか?
ひとつだけ、事前に確かめたのは、台所の上蓋を持ち上げてもらい、床下に手を入れて土を掬ったところ、雨続きにもかかわらず白砂のような粒子がさらさらと指の間から落ちたのを見て、これは大丈夫と確信したのです。土目を見れば、その土地がわかるものです。
契約を済ませると、「母屋の座敷の疊」を替え、唐紙を光らない金襖、銀襖に張り替えさせただけで原型を留めました。
「玄関脇の八畳」も同様で、畳敷きを板張りの床にした以外は変えず、唐紙は格天井に合わせて緋色に金砂子の御殿風にして御簾を下げ、書斎として使うことにしました。
南向きに増築された「二階の二十畳の畳敷き」も板張りにして襖障子を張り替えただけで、これに大きな寝台を運びましたが、ひとりで寝るには広過ぎて勿体ないくらいです。窓を開けると崖下に咲く季節ごとの花の香りが通い、深夜になると昼には聞こえない多摩川のが、枕の下を流れるのが不思議です。
西側の「十畳の畳敷き」も床張りにした上で押入れも襖を外し、「和洋の衣装部屋」として、バッグや靴もすべて収納出来るように手を入れ、裏の菜圃に面する西側の障子も窓も用心のために板壁にして塞いで仕舞いました。
台所、洗面所、湯殿、不浄場などの水廻りは「最新式のホテル仕様」に総取替えをし、壁のクロスは業者に頼んで海外のカタログを取り寄せ、山里の閑居で気が滅入らないように欧州流の豪奢な金彩銀彩の模様を選んだのは正解でした。
(岩下尚史さん Instagramより @iwashita_hisafumi)
東京・青梅での古民家暮らし。自然の中に身を置いてわかったこと
また、木造の古民家は湿気がひどく、すぐに黴が生えると聞きましたから、軽井沢に別荘を持つ友人の勧めで、排水式の除湿器とエアコンをすべての部屋に設置し、留守の時も一年中、稼働して快適に過ごしています。
家具や照明器具については、青梅駅前でゆくりなく見つけたアンティークの店で英国渡りのものを選び、華奢に走らない程度の綺麗な様式の調度を揃えました。
──お家の中の調度品にも岩下さんのこだわりが詰まっているんですね。
と言うのも、歳を取るにつれて畳に座すのが辛くなり、椅子に掛けて暮らすのが楽ですから、しぜんと西洋式の家具を選ぶようになり、そうなると青梅の奥なる茅舎に似合うものは堅実な風合いのある英国製ということになるようですね。
そうは言っても、若い頃に新橋の花柳界を覗いていますから、いわゆる民芸趣味には遠く、床の間に飾るのは昔の院展のあっさりした「和絵風の掛軸」や「歌右衛門」のなどを掛けています。
食器も銀座の東哉の薄手造りを愛用したり、切子もバカラや何かの舶来品を遣うなど、都を離れたぐらしの中にも都風を塩梅して、くすみがちな古民家を小綺麗に彩って暮らして居ります。
青梅に移住して10年。「私の書斎で一緒に暮らしています」愛犬・綱切丸くんとの出会い
このあたりには商店やスーパーマーケットがなく、買い物は不便なようですが、今は「イーコマース」で何でも直ぐに配達してくれますし、週に1度は都心に出ますから、生鮮食品は百貨店で買えば済みます。
運転免許を持ちませんから、気軽にドライブ出来ないのは残念ですが、用事のあるときはタクシーを呼べば、朝夕以外は1時間半で都心に着くので苦にはなりません。
一人暮らしですから、防犯には気を配りますね。警備会社と相談して、色々な対策は講じています。
移住して10年になりますが、今のところ、何も問題もありませんし、おかげさまで先祖代々暮らしておいでの御近所も、皆さん立派な方々ばかりで、不愉快なことは何もなく、付かず離れずのお付き合いをしています。
──岩下さんは青梅に移られて愛犬も飼い始めたとか?
はい、これも用心堅固のためもあって、番犬を飼いたいと思いまして。この家を紹介して下さった、あの犬を連れた奥さんに相談したところ、「お望みどおりの雑種の若い牡犬がいましたよ」と。
あきるの市のピースワンコ(保護犬支援プロジェクト)にお連れ頂き、当時1歳半の保護犬をひと目見て気に入りました。でも、独身には渡せないという規則があるそうで、その奥さんが私の留守のときには必ず預かって下さるという条件付きで譲渡の契約が叶いました。
せめて名前だけでも立派にしてやりたいと思い、うちの遠祖は近江の佐々木ですからね、宇治川の先陣争いの時の刀の名である「綱切丸」と呼ぶことにしまして、私の書斎で一緒に暮らしています。
(岩下尚史さん Instagramより @iwashita_hisafumi)
景色が良すぎて、ちっとも筆が進みませんね(笑)
綱切丸とふたりして、書斎の窓から、青梅丘陵を眼前にひかへて多摩川に沿う景色をながめて暮らしていますと、何もしなくても、一日がアッという間に過ぎていきます。
夜明けには崖下の多摩川から霧が立ち罩め、それが晴れる頃には青梅丘陵の山の端が曙色に染まり、やがて金色に輝く朝日が昇ります。
それが沈む夕暮れには、御隣家の老松越しに月が出ますが、それが満月の時には、まるで千両役者がセリ上がるような風情で、10年経った今でも見飽きることがありません。
──自然豊かな青梅のお住まいでは、執筆も進まれたのではないですか?
著作ですか?お恥ずかしいことに、景色が好いのと、昼寝に最適な家を持ったせいで、ちっとも筆が進まず、編集委員各位には恨まれたり、呆れられてばかりで、甚だ遺憾慚愧に堪えないんですよ(笑)。
──では青梅のお家が、終の棲家に?
いいえ、満足はしていますが、これが終の棲家とは考えてはおりません。だって、明日は何があるか分かりませんから。
「竟の棲家」はわからないもの。最善の場所を選び、住居は状況によって替えてゆく
住居は住む者の状況によって替えてゆくものでしょう。その時々に応じて最善の場所を選び、その空間をその時の自分にとって出来る範囲での最善の住居に創ることが出来たならば幸せだと思っています。
と言うのも、私は3年前に心不全で倒れ、東京女子医大で手術をして頂き一命は取り留めましたが、難病指定の診断を受けましたので、いつまで山中の独居を続けることが出来るかは分かりません。
犬についても、先日、これまで預かって下さっていた奥さんの家庭の事情が変わったという申し出があり、近くにペットホテルはなく、あっても運転免許を持たない私ですから、譲り受けたピースワンコに相談しました。
もともと独身には犬を讓ることは出来ないという条件でしたので、事情が変わった以上は、私が飼い続けることは現実的には無理であるから、どなたか条件の適った愛犬家に譲渡することをお勧めしますとアドバイスされ、なるほど愛情云々の感傷よりも、綱切丸が最期まで不足なく生きられるようにしてやることが一番だと思いました。
そこで、その奥さんから「私が預かれない時には、綱切丸君と仲良しの犬を飼っている方を御紹介します」と。
連絡先を教えられた若い御夫婦に幾度かお願いするうちに、うちの犬を託すべき御家族であると確信を得た私は、終生にわたる養育費、ペット保険および医療費、ペットフードの費用の負担をお約束しました。
お願いしたところ、御納得を頂きましたので登録変更の契約書を交わして、無事に譲渡することが出来ました。名前はもとの、綱切丸のままだそうです。
居心地のよい場所を求め続けます。お目出たくなる前に、少しはマシなものが書けるかも知れません
スノーボードやラフティングなどアウトドアの御趣味のある御夫婦に、もともと、なついていた綱切丸は、先住犬である大福君と兄弟のように暮らしているそうです。
御夫婦の運転なさる車で色々なところへ連れて行って頂き、先日などは青梅から関西まで遠出をして、楽しんでいる様子を画像で送って頂き、ほんとうに良かったと安心しています。
と言うのは、今年の夏にも青梅の書斎で倒れ、救急車で近くの総合病院に運ばれて事なきを得た私でしたが、そろそろ山里ぐらしも六つかしくなったと観念しました。
気がかりであった綱切丸も幸せになったことだし、掛かりつけの東京女子医大に近いところに住むのが宜しかろうと、青梅とは別に一軒、都内に住居を用意することにしました。
今度は一軒家ではなく、スマホひとつで操作可能の新築のマンションですから、風情はないかわりに、難病指定の老人が暮らすには最適ですね。
しかし、世も人もうつろうものですから、これが「竟の棲家」であるかどうかは分らず、また越すのか、あるいはシニアマンション、老人ホームと、その時の自分と相談しながら、居心地のよい場所を求め続けます。
──岩下さんのこれからの人生の目標を最後に是非、教えてください。
岩下 これからの目標ですか、そうですね、主治医からは適度な運動を勧められますし、永井荷風の旧居の近くに引っ越したという縁もあり、これからは日和下駄でも履いて、てくてくと都内を散策してみたならば、お目出たくなる前に、少しはマシなものが書けるかも知れませんよ。
(執筆/横山由希路 撮影/加藤春日)
岩下尚史さんの著書『花柳界の記憶 芸者論』 (文春文庫)は好評発売中!
花柳界、芸者、三業地…文字としては馴染みがあっても、実態は殆ど知られていない世界。
長年新橋演舞場に身を置き、数々の名妓たちと親交のあった著者が、芸者の成り立ちから戦前、戦後の東京の花柳界全盛の時代までの歴史と変貌を細やかに描写。
処女作にして和辻哲郎文化賞を受賞した、画期的日本文化論。