海があって別荘があれば十分。つまらない小説書いたらすぐ死ぬだろうね。

「死ぬときは死ぬだろうって思ってますよ。つまらない小説書いたらすぐ死ぬだろうとね。それは小説の神様が『もう生きてなくていいよ』っていうことなんだろうと思うんです」そう語るのは『弔鐘はるかなり』や『檻』などのハードボイルド小説、そして大河小説・大水滸伝シリーズや『チンギス紀』などの数々の名作を世に出してきた文壇の雄、作家の北方謙三さん。

インタビュー前編では、最新エッセイ『完全版 十字路が見える』について、そして北方謙三先生の知られざるご自宅の秘密や創作の原点についてお話を伺いました。
さらに後編では最新作となる長編が完結したばかりの北方先生に次回作の構想についても詳しく語っていただきます。

いまは長編『チンギス紀』の執筆が終わったばかり

原稿に書くようなことは思い浮かべられない。「言葉」がひとつあるだけだから。

──北方先生は3つの拠点で小説を執筆されているそうですね。どんなところで書かれているのですか?

北方謙三(以下、北方) 今回のインタビュー取材のように、人と会う時は必ずこの「ホテルの仕事場」です。あとは「自宅」と三浦にある「別荘〝海の基地〟」の3カ所を10日ごとに移動しながら執筆しています。

別荘「海の基地」では、魚が釣れるときは船を出したり、海が荒れてたら静かに本を読んでたりしていますね。

長編は、『チンギス紀』が終わったばかりで書いていませんが、長いのを始めると5、6年はかかり切りになりますね。

どの場所でも、その時あるものをやるっていうのかな。

──小説の連載中はその間、物語がずっと進行してるんですか?

北方 頭の中で進行するっていうより、私の場合は、原稿用紙の上で進行していく感じかな。

要するに、頭の中には原稿用紙に書くような具体的なことは思い浮かべられないんですよ。

言葉がひとつあるだけだから。潜在してるものが書くことによって顕在化していくっていうことですね。

いまでも原稿は愛用の万年筆で手書きだという

──手書きで執筆されるんですよね。

北方 万年筆が常に5、6本。こだわりはないけど、新品の万年筆のペン先を私の書き癖に合うように、形に加工してから使っていきます。原稿用紙も特にこだわりはなく市販の、学生が使ってるようなものですね。

私の原稿は、書き損じを直すことはありますが、後から加えるとか、削るというのはほとんどないんですよ。

──では、物語が淀みなくドーンと出てくるんですね。

北方 そういう形になってますね。ただ、20代に純文学をやってた時は、2行書いては書き直し、また2行書いては書き直しというようなことを延々とやってましたね。

ホテルの仕事場で原稿を執筆する北方先生

若い頃は出版社から「缶詰め」にされた。あれはほんとにイヤ(笑)

──1日でどのくらいの量の原稿を書かれるのでしょう。

北方 最高で原稿用紙60枚ぐらい…、いや50枚台かな。同業者でそれくらい書く人はいますよ。これが物語の冒頭部分だと、なかなかそこまで書くのは難しいんです。でも物語が進んで、最後の結末に近い部分に入ってくると、それくらい書けちゃいますよ。

書き終えて時間の経過を知るっていうよりも、まだ書ける、まだ書けると思っているうちに、体力的にも、頭の働きから言っても力が尽きた時に、その枚数に達しているという感じですね。

──このホテルの仕事場には、いわゆる〝缶詰め〟の悲愴感はないですね。

北方 ここは40年ぐらいになりますが、自分で借りてます。若い頃は出版社から「缶詰め」にされて籠ってたこともありますが、あれはほんとにイヤな感じですよ。

この部屋は出版社が借りてるわけじゃないから、編集者に『入ってくるな!』と言えるわけです(笑)。

大体、朝6時か7時くらいに寝て、それで昼の11時に起きる。シャワーを使って12時に飯を食う。ズレてますが規則正しい生活をしていますよ。その間に部屋の掃除をしてもらうんです。掃除してもらわないと、生活感がどんどん出てきてしまってね。

ここで一番集中して書けるのが、正午から午後1時半のブランチの間です。

その間、原稿用紙も持って行くわけです。軽く食事して、コーヒーだけにしてずっと書いてるとね、見てる人がいるんですよね。

集中して書こうと思って、原稿用紙の天の綴じてあるところをビッと破くんですよ。そうすると周りがシーンとしてきて、みんな注目してるのがわかってくるんです。そうなってくると、私の場合は逆に集中して書けるんですよ。

星条旗と元帥旗がたなびく「マッカーサー元帥の別荘」を改築

──もう一つの執筆の拠点「海の基地」は、元はD.マッカーサーの別荘だったそうですね。

北方 引っ越したのは2000年ぐらいですね。元々は木造2階建てで、フラッグポールを2本立てる台があって、それぞれに星条旗と元帥旗がたなびいてたそうです(笑)。

当時は道がなかったから、マッカーサーは横浜のノースピア(瑞穂埠頭)から駆逐艦を相模湾に出して、テンダーボートでやって来てたようですね。

長い桟橋があって、その先にポンツーン(浮き桟橋)を置いてあるんですよ。

これは元々あったもので、現在は元のサイズのまま新調して使っていますが、私の自慢なんです。孫たちが遊びに来た時はそこでキスを釣ったりしてますよ。

──そこにも仕事スペースがあるわけですね?

北方 最初は一番奥の部屋を書斎兼寝室にして執筆してたんですが、今はほとんど一人なのでだだっ広い居間を仕事場にして、海を真正面に見ながら原稿を書いています。

船の手当てを任せているクルーが帰ると、誰もいなくなります。周りには何もないですから、大声を出しても誰にも聞こえないですよ。近くの別荘に人がいるのは稀ですからね。

だから波の音、冬になると風の音ですね。夜中になると鳥がギャーッと鳴く。暖かくなれば地虫の鳴き声。

近隣の小網代(こあじろ)の森は源流・流域・河口が全部自然のものなんですね。だから魚種も豊富なんですよ。

その隔絶というか孤絶というか、そこに快感を覚えてね。

長野県・蓼科の別荘で雪山の『孤絶』を楽しむ

──孤独を楽しむという感じでしょうか。

北方 そういう「こだわり」があるわけではないんです。

以前は、長野県の蓼科に別荘があって、山中の一軒家だったんですよ。そこの場所そのものが気に入ってて、夜になると「山の精霊」の気配があるんじゃないかと思うぐらいの静謐さで、なにかが動いていると思ったら鹿だったり。タラの芽やフキノトウを天ぷらにして食うとかね。

一度、大雪の日に四駆にスタッドレスを履いて、食糧を買い込んで向かったことがあります。

たまたまブルドーザーで除雪していた知人に別荘まで道を作ってもらって。灯油もたっぷりあるのを確認して、徹底的に部屋をあったかくしてね。どんどん雪が積もって、窓の外が何にも見えなくなってね。

このまま隔絶されてもひと月は大丈夫だと思ったら、ものすごく楽しくなってきてね(笑)。

その隔絶というか孤絶というか、そこに快感を覚えてね。わざわざ手間のかかる料理をしたり。でも3日目ぐらいにブルドーザーのエンジン音がしたんです。知人が心配して来てくれたんだけど、心の中では『来るなよ』と(笑)。

もう蓼科の別荘はありませんが、〝海の基地〟も孤独を楽しんでいるという感覚はあるかもしれませんね。

私の原風景はたぶん、故郷の砂浜。すごく綺麗でしたよ。

──佐賀県唐津市の港町ご出身ですが、〝海の基地〟は故郷に近いイメージがあるのでしょうか?

北方 あちらは玄界灘ですからね。三浦の別荘は湾の中で、荒れる時は荒れますが、実家のイメージとは全然違いますね。実家には大きなフナムシがザーッと歩いてたものですが、トコトコ歩いてるぐらいですからね。

 10歳まで住んだのは、佐賀県東松浦郡にあった佐志(さし)という港町で、家の前には堤防があって、すぐビーチがあって。ビーチって言葉はいいですが、砂浜ですね。ここには砂浜なんてないですからね。

私の原風景はたぶん、その砂浜でしょうね。長い砂浜で、すごく綺麗でしたよ。

──そこから現在もお住まいのご自宅がある神奈川の川崎に引っ越されたんですね。

北方 小学5年生でね。周りに坊主頭なんて私一人でしたよ。父親が外国航路の船長で、船は横浜にしか帰ってこれないから、川崎に家を買ったんですね。

私は親父からもらったその家に今も住んでるんです。タワマンがどんどん建って見違えましたが、当時は工場ばかりで周りには何もなかったですよ。

文句でも言ったら出て行けって言われちゃうじゃないですか(笑)。

妻が「メルヘンチックな家ではいけない」と自宅の門は武家屋敷。大黒柱は古寺の通し柱に

──そうなると結構な築年数なのでは?

北方 いやいや、それは私が買った時とは比べ物にならないぐらいの金をかけて建て直しましたよ(笑)。

改築したのは1985年ですが、家族には自由に建てていいって言ったんですよ。

だって私は月の半分以上は自宅にいないし、大体家族は全員女なんです。秘書も女性だし、犬も雌でしたから。妻には母と同居してもらわないといけない立場ですし、住んでいる君たちが決めていいんだとね。

でも妻は考えに考えて、門なんかは武家屋敷のような武骨な感じにして、大黒柱は取り壊した『お寺の太い通し柱』を使ったりした剛直なつくりにしました。

──これぞ北方謙三の家ですね(笑)。

北方 そうそう、男の小説を書いてるわけだからメルヘンチックな家ではいけないと、ドカンと豪快にね。

2階は丸太の梁が剥き出しになっているようなしつらえで、大きな囲炉裏があって、冬になるとそこで炭を焚くんですよ。自在鉤(じざいかぎ)があって、編集者が早めに来ると鉄瓶にお燗つけてたりしてね。

ただ階下の妻たちの生活空間には割といろいろあって充実してますね。もちろん、私は満足してますよ。

文句でも言ったら出て行けって言われちゃうじゃないですか(笑)。

書斎の書庫はもう入りきらない。近所には書庫用のマンションまで

──書庫もあるそうですね。

北方 書庫は書斎の隣にありますが、もう入りきらないです。あんまり置いとくと家がそっちの方向に崩れちゃうんじゃないかと心配で、近所に書庫用のマンションを借りています。

それともうひとつ、私の生原稿を保管している場所もあります。何百冊と書いているから、すさまじい量なんですよ。私は書いてしまったらどうでもいいんですけど、秘書はそうは考えていないようでね(笑)。

年代ごとに整理されているようで、何年にどんな作品を書いていて…っていうとスッと出てきます。

──拠点が3カ所あると執筆中は小説の資料も持ち運ぶのですか?

北方 一緒に持ち運びますよ。ドアツードアですからね。昔は持ち運びに苦労しましたが、最近はそんなに使わなくなりました。資料は内容まで分かっていなくても、どこに何が書いてあって、必要なものがどれなのかがわかってさえすればいいので、資料本が3冊あれば十分な時があります。

それに歴史ものの勉強っていうのは減っていきませんから。蓄積するだけなんですよ。

あとは構想用のメモ帳は必携ですね。だって登場人物の名前忘れちゃったりするじゃないですか。体の特徴とかも書いておかないと、覚えてると思ってパーッと書くと、校正者から『顔の傷は右です』なんで指摘されたりします。メモ見たら確かに「右」って書いてある(笑)。

『十字路が見える』のエッセイだったら、資料はそんなにいらないですからね。エッセイはホテルの仕事場でよく書いた記憶があります。

小説の神様がどんなふうに判定するかわかんないですからね。

海があって、別荘があれば十分。つまらない小説書いたらすぐ死ぬだろうね。

──いまの3拠点での執筆生活には満足されてますか?

北方 海があって別荘があれば十分ですね。〝海の基地〟は今までで一番いい場所です。

ただ、最近は、いると必ず妻から電話がかかって来るんです。生存確認です(笑)。ここにいる時にも一回かかってきましたよ。年齢が年齢だから、何かないとも限らないじゃないですか。

でもまあ、死ぬときは死ぬだろうって思ってますよ。つまらない小説書いたらすぐ死ぬだろうとね。それは小説の神様が『もう生きてなくていいよ』っていうことなんだろうと思うんです。

だから、きちんと小説を書いて、それが今まで書いたものと伍して売れていけると思ってくれたら完結させてくれるんだろうと。これは私が思ってるだけですよ。小説の神様がどんなふうに判定するかわかんないですからね。

【インタビュー後編はこちら】「まだ作家としての肉体が終わってない。最後の長編を書く」作家・北方謙三が小説を書き続ける理由


取材・執筆/坂茂樹 撮影/荒木優一郎

北方謙三先生の著書「完全版 十字路が見える」

北方謙三さんのエッセイ集『完全版 十字路が見える』(岩波書店/全4巻)は好評発売中!

かつて「小僧」と呼ばれた、全ての同朋へ。人生の歓びと切なさを綴り倒すエッセイの旅路、ここに開幕。

『週刊新潮』の人気連載が生まれ変り、全四巻の「完全版」として堂々書籍化。等身大の北方謙三が人生の歓びと切なさを語り尽くした、光溢れるエッセイ集。第Ⅰ巻には、鮮烈なスペインの旅を綴った「アディオスだけをぶらさげて」、作家人生の岐路を振り返る「薔薇と金魚と十字路」など百一篇のエッセイに加え、アメリカ最南部を舞台とした伝説の中編小説「ブルースがあたしを抱いた」を特典として収録。

作家
北方 謙三 きたかた けんぞう
1947年、佐賀県生れ。中央大学卒業後、1981年の『弔鐘はるかなり』で単行本デビュー。1983年『眠りなき夜』で日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞受賞。1984年に『檻』で日本冒険小説協会大賞、1985年『渇きの街』で日本推理作家協会賞を受賞。平成元年から歴史小説にも挑み、1991年『破軍の星』で柴田錬三郎賞受賞。2005年『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞を受賞。2007年、『独り群せず』で舟橋聖一文学賞を受賞。2010年、日本ミステリー文学大賞受賞。2011年、『楊令伝』全15巻で毎日出版文化賞を受賞。2013年、紫綬褒章受章。2016年「水滸伝」、「楊令伝」、「岳飛伝」全五十一巻で菊池寛賞を受賞。2020年旭日小綬章を受章。2024年毎日芸術賞受賞。
【お住まい周辺】
無料一括最大3社
リフォーム見積もりをする