いまの住まいとの出会いは運命でした
自宅のこだわりやライフスタイルなど住まいをテーマにお話を聴く『ハピすむ特別インタビュー』。第2回のゲストは、『おもいで酒』や『雪椿』などの大ヒット曲、紅白歌合戦での伝説的な豪華衣装やネット世代からも「ラスボス」の愛称で親しまれる国民的歌手の小林幸子さん。
豪邸の事務所へのリフォーム体験やご近所さんから遺言で指名されたという新居について、そしてわずか15歳で家計を支え一家の大黒柱として働き国民的歌手になるまでの激動の芸能生活についても語っていただきました。
さらに、住まいもライフスタイルも大きく変わったという旦那様との結婚生活についてもお話しを伺いました。
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豪邸をリフォームして幸子プロモーションの事務所に
──本日は小林幸子さんの事務所に伺ってお話を聞かせていただいています。YouTube『小林幸子はYouTuBBA!!』でも公開されて話題になりましたが、本当に豪華な事務所ですね。
小林幸子(以下、小林) もともと、ここは自宅だったんですよ。30歳の時に両親と住むために家を建てました。その後、私一人で住むための家として1989年ごろに建て替えをしたんです。室内はリフォームしましたけど、建物はそのままですね。
──じゃあこの場所はずいぶん長いんですね。
小林 住み始めてから長いですね。地域でも古株になっちゃったかな。同じ町内に芸能界の方も多いですよ。自転車で遊びに来ますから(笑)。
──2019年にはお向かいに新居を建てられましたね。週刊誌でも「4億円豪邸」なんて報じられていました。
小林 ここは元々私一人で住むために建てた家だったので、結婚して主人と暮らすには手狭だったんです。
それで「近くに売ってくれるようなお宅があったらいいね」なんて話してた時に、向かいのお家の親戚の方が見えて、「ぜひ小林さんに買ってほしい」って。前に住んでいたご夫婦の遺言だったそうです。
亡くなったご夫婦とは、同じ町内ですから、会えば挨拶をしたり、季節のものをいただいたらおすそ分けをしたりといった町内付き合いをしてたんです。
ご指名をいただいたことも嬉しかったですし、ぜひということで買わせていただきました。だから今の住まいとの出会いは運命的だったんですよ。
──そんな経緯があったんですね。それで新居を建てられて、元ご自宅を事務所にされたと。リフォームもその際に?
小林 リフォームは結婚して主人と暮らすことになった際にしました。それまでは私一人と猫が快適に住むための間取りだったので。
──そうだったんですね。リフォームのお話は後でゆっくり伺うとして、まず、これまでの幸子さんの足跡を伺うことも兼ねて、お住まい遍歴から伺えますか。
小学校5年生で、東京のアパートで一人暮らしをスタート
小林 新潟県の小さい商店街にあった、「小林精肉店」の3番目の娘として生まれました。店も合わせて20坪ぐらいの小さな家でしたね。でも、すっごい繁盛してたんですよ。
新潟と言えばやっぱり海産物。だから魚屋さんはたくさんあったんですけど、肉屋が少なかったんです。戦後、「これからは肉の時代だ」って母は感じて、肉屋をやろうってことになったそうです(笑)。今にして思うと、先見の明があったんですね。
でも当時は、戦後っていうこともあって商売は大変だったと思いますね。
──商売をしていたのなら、お母様も忙しかったのでは?
小林 母も店に出てましたから、私は乳母車に乗せられて店先にいるわけです。すると、お客さんが取っ替え引っ替え「かわいいね~」と、私をかまってくれる。だから私、新潟弁で「もじけない子」って言われていたんです。
”もじけない”っていうのは、人見知りしないという意味。それで、こんな風になっちゃいましたね(笑)。
1964年、東京オリンピック開催の年に歌手デビュー
──そこが、幸子さんの親しみやすい人柄の原点なんですね。
小林 9歳のとき、歌まね番組の審査員長をしていた作曲家の古賀政男先生に芸能界にスカウトしていただいて、10歳でデビューしました。
上京して、大田区でクリーニング店をやっていた叔父の家にちょっとだけ住んだあと、デビューして新宿区の四谷3丁目のアパートで一人暮らしをはじめました。
──10歳で、東京のアパートで一人暮らしですか?
小林 今だったら大変なことになりますよ(笑)。そもそも家の契約ができないでしょうね。そこは当時所属していた事務所だった古賀プロさんにちゃんとやっていただいてたし、マネージャーさんが通って身の回りのことをお世話してくれたりしていました。
私が一人で近所のスーパーに買い物に行ったりするとね、お店のおじちゃんやおばあちゃんが「はい、これ持ってっていいよ」なんて言って商品をいっぱいくれるの。テレビにもちょこちょこ出ていたので、「いつも観てるよ」とか言われちゃって。歌手でしたけど、四谷第四小学校に通う小学校5年生の子供でしたからね。
歌手・小林幸子の運命を分けた新潟地震
──そもそも10歳で歌手デビューっていうことも例がないことですから。
小林 研ナオコちゃんは同じ年なんですけど、テレビで歌う私を観て衝撃を受けて、歌手になろうと思ったみたいですよ。私が『ウソツキ鷗』でデビューしたのは1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催された年です。
東海道新幹線が開通したのもこの年ですし、新潟を襲った大地震があったのも昭和39年なんです。
──マグニチュード7.5を記録した新潟地震ですね。幸子さんのご実家も被害が?
小林 家は傾いて大変な状況でした。それでも復興しようと頑張ってたんです。ところが、復興支援ということで都会から大きなスーパーがやってきた。それで地元の小さな商店街はお客さんをみんな奪われてしまったんですね。
先程もお話しましたけど、実家の商売はいい状態だったんです。「いつかもう1店舗やりたいね」とか、「もっと大きくしたいね」と言って、借金して冷凍庫なども買い備えていた時に地震がありました。それが全部マイナスになってしまって、設備投資したのに地震で家は壊れるわ、お客さんは減るわ、借金は増えるわで最悪の状態でした。
──地震が運命を大きく変えてしまったんですね。
小林 新潟地震があったとき、私は東京にいました。もし震災がデビューする前だったら、私は小林幸子という歌手にはなれなかったと思います。
わずか15歳で、歌で家族を支えた
──運命の妙としか言いようがないですね。その後、ご実家は?
小林 家族は新潟で、私は東京でした。別々じゃなく、やっぱりみんなで一緒にいたいという両親の気持ちがあって、家族が東京へ上京して同居することになったんです。
私が歌で家族の家計を支え、家賃を払い目黒区大橋に住み始めました。
今は地下鉄の池尻大橋駅がありますけど、当時は地下鉄もなかったし、首都高速3号線もなかった。都電が走ってるぐらいでしたね。そこに両親と姉2人と5人で住みました。
だから、仕事はなんでもやりますって言ったら、キャバレーのステージで歌う仕事が来たんです。でも「15歳です」って言ったら、「労働基準法に引っかかるからダメ」って。だから年齢を聞かれたら「18歳です」と答えていました(笑)。
──どうしても歌ってお金を稼がなきゃいけない中で、苦肉の策だったんですね。
小林 そんなこと今だったら大問題なんですが。もう昔の事だから言いますが、「18歳って言えば仕事をもらえるんだ」と思って、それからはずっと18歳で通していました。
戦後日本の成長と一緒に『小林幸子』は歩んできたんだと思います
──当時はなかなかヒット曲に恵まれず、全国のキャバレーを回って歌われていたご苦労の時代だったと伺っています。
小林 でも、歌を歌ってたんでね。私にとって、歌を歌うってことは、楽しさもあったけど第一に生活するためでした。
──15歳といえば、中学3年生。家計を支え、一家の大黒柱として働くというのは、どんなお気持ちでしたか。
小林 生まれて15年しか経ってないとね、あまり深く考えないんですよ(笑)。
大変さを他と比べられるほどの人生経験もまだないですから。仕事に行ってお金をもらって「これが家賃、これは食費に」って、そういった生活を繰り返していて、歌うことは自分の職業だと思うようになりました。
とにかく、がむしゃらに生きていた時代でしたから。
──そして苦節15年、1979(昭和54)年に『おもいで酒』が200万枚を売り上げる大ヒット。同年の紅白歌合戦に初出場し、以降33回連続出場という大記録もお持ちです。
小林 来年でデビュー60年を迎えますけど、どんな芸能生活だったかと訊かれると、「波乱万丈だけど、面白い人生を過ごさせてもらった」と答えます。
戦後復興に頑張ってる日本も知ってるし、高度成長期も知ってる。その時代々々の街並みもよく覚えています。まだトタン屋根の家がいっぱいあったなぁって。日本の成長と一緒に『小林幸子』は歩んできたのかなって思います。
愛猫たちのため豪邸を全て吹き抜けに建替え
──その後、現在の事務所があるこの場所にお家を建てられたということですね。
小林 そうです。『もしかして』(1984年)の後くらいかなあ。両親と、私の3人で暮らすために、二世帯住宅のような形で自宅を建てました。
私と両親では生活形態や、活動する時間帯があまりにも違うので3分の1と3分の2くらいで間取りをわけました。狭いんですけど、そうしないと、私は夜中も明け方も関係なく仕事から帰ってくるし、歌の練習もしますから。
──そういったご配慮があったのでしたら、ご両親も快適だったんじゃないでしょうか。
小林 でも、母は喘息の持病があったんです。だから「空気のいいところで最期を迎えたい」といつも言ってました。その後、静岡県伊豆の函南町に富士山が見えるいいお家を見つけて、購入しました。
両親はそっちで畑をやって、いろんなお野菜を作ってました。あの頃は「もういらないわ」っていうくらい送ってきましたよ(笑)。
両親が函南の家に移って私一人になったから、じゃあ自分用の家に建て替えようということで、現在ある建物に建て替えました。
当時は私、絶対に結婚するなんてことはありえないと思ってましたから、自分一人と猫が住むための家にしました。
猫は、一番多い時で7匹いたんですよ。いまは、事務所としてリフォームをして仕切りを入れて個別の部屋にしていますけど、以前は猫がどこにいてもすぐわかるように、全部吹き抜けにしていたんです。「おーい」と呼んで、「ニャー」って聞こえたら一発で猫がどこにいるのかわかるような、お家にしたかったんです(笑)。
「それが、どうしましょう。結婚しちゃったの私(笑)」
──幸子さんと猫ちゃんが快適に住むための間取りだったのですね。
小林 自分一人だから、わざわざ部屋を区切る必要がないですからね。いま取材をうけているこの部屋も、元は壁の一面を全部鏡にして、日本舞踊のお稽古をしたり、洋舞の稽古をしたり、歌ったり、衣装合わせも全部やる部屋として使っていました。
それが、どうしましょう。結婚しちゃったのわたし(笑)。
──ご主人とご結婚なさったのは2011年でしたね。
小林 主人の方もマンションがあったんですが、私は衣装やいろんなものが家にあるので、悪いけどこっちに来てもらって二人で暮らそうということになりました。
それで一緒に住むんですが、一人用にしか作ってない家なわけですから、狭い(笑)。
それに、私は夜中に歌の練習をしたりもするし、とんでもない時間に仕事で出かけなきゃいけないときもあります。主人は「遠慮なく練習していいよ」なんて言うんですけど、やっぱり気を遣うじゃないですか。困ったなぁと思って。それで自宅をリフォームすることにしたんです。
《次回インタビュー後編は12月14日公開!》
(取材・執筆/牛島フミロウ 撮影/荒木優一郎)
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