リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん

90歳の現役ジャーナリスト。もうそれだけで面白いでしょう

長寿討論番組『朝まで生テレビ!』での鋭い言動が注目され続ける田原総一朗さん。今春刊行された『全身ジャーナリスト』(集英社新書)は、90歳を迎えた最高齢ジャーナリストの遺言の書として大きな話題を呼んだ。

インタビュー前編では、文学青年だった田原さんはいかにしてジャーナリズムの最前線へと躍り出たのか。波乱万丈のエピソードを交え、「憲法9条」「原発」「電通」タブーなきテレビ界のモンスター『田原総一朗』の人生を語っていただいた。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
戦争の惨劇を知らない世代に伝えなければいけないことがあるんです。

たとえ老害と批判されても、戦争を体験した最後の世代である僕は黙っていられない。

──卒寿を迎えたタイミングでの上梓となった自伝本『全身ジャーナリスト』(集英社新書)にはどんな思いを込められたのでしょうか? 

田原総一朗(以下、田原) 90歳の現役ジャーナリスト。もうそれだけで面白いでしょう(笑)。

たしかに、いまの僕は滑舌が悪いし、話をしても繰り返しが多くなっているのはわかってる。かつてのような冴えもなくなったかもしれない。でも、僕はどうしても一丁上がりとは言えない。「ジャーナリスト」として死の瞬間まで時代を見つめていくべき。そう思ってる。

──書籍の惹句には「遺言」という二文字がありますが、真意は生涯現役続行宣言だったのですね。

田原 世間一般では90歳と言う年齢は、これまでの人生に感謝して静かに余生を送るべき時期なのかもしれない。

でも、「ウクライナ戦争」や「ガザ危機」、米中の対立から「台湾有事」が懸念される現状を見ると、第2次大戦を経験している『最後の世代』である僕は黙っていられない。

かつての冴えも無くなったかもしれない。確かに滑舌が悪くなった。繰り返しも多くなった。たとえ老害と批判されても、戦争の惨劇を知らない世代に伝えなければいけないことがあるんです。

「もう死ななくていいんだ」軍国少年は、天皇のために戦って死ぬはずだった。

──著書でも「僕にはジャーナリストとして守るべき3つの原則、追求すべき理想がある」と強調されていました。「日本に二度と戦争をさせない」「言論の自由は身を挺して守る」「野党を強くする。政権交代可能な政治風土を作って日本の民主主義を強靭化する」という信念ですね。

田原 1945年8月15日。僕は小学校5年生の夏休みに天皇の玉音放送を聞いた。内容はよくわからなかったんだけど、市役所の職員がメガホンで「戦争が終わりました」と叫んでいるのを聞いてようやく日本が負けたのを知った。

それを聞いて僕は絶望的になった。なぜなら1学期まで「日本以外のアジア諸国はほとんど植民地にされてしまった。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
小5の夏休みに玉音放送で日本が負けたのを知った。僕は絶望し、ひたすら泣きました

日本は世界中を植民地化しようとしている悪しき英米を打ち破り、アジア諸国を解放するための正義の戦争をやっている」「大人になったら戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死をしなさい」と学校で教わっていたし、従兄弟が海兵(海軍兵学校)に行って格好いい軍服を着ていたのを見て心底憧れていた。

自分も中学を卒業したら海軍士官になって国のため、天皇のために戦って死ぬと誓ってましたから。

それなのに海兵に行けなくなってしまった。天皇陛下のために戦争に参加することが人生の唯一正しい目標だと思っていた軍国少年の僕は絶望し、ひたすら泣きました。そしていつの間にか泣き寝入りしてしまった。

目が覚めたら夜になっていて、窓から外を見たら昨日まで真っ暗だった街が明るくなっていた。空襲に備えた灯火管制がなくなって、家々の窓に電灯の明かりが点いていたんです。

それを見ていたら「もう死ななくていいんだ」という感情が湧き上がってきた。解放された気分になったんです。

「大人や権力の言うことは信用できない」敗戦がジャーナリストの原点

──文字通り一夜にして世界が一変した。凄まじい経験です。

田原 そう、それで2学期になって学校へ行ったら、「国のため、天皇ために死ね」と言っていた教師たちが「実は侵略戦争をやっていたのは日本の方で正しいのは英米だった。もうあんな悪の戦争は絶対やってはいけない。これからは平和な日本を持続できるように頑張っていかなければいけない」と、1学期までとは真逆のことを言い始めた。

それからは、「戦争は絶対悪だ、君らは平和のために頑張れ」「平和のために命を懸けろ」と聞かされ続けた。

ところが、1950年6月、朝鮮戦争が始まり、在日米軍もそれに参戦しているのを見て僕が「戦争反対」と言うと、教師に「馬鹿野郎! お前はいつから共産主義になったんだ!」と怒鳴りつけられた。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
思春期のトラウマが、その後の生き方を決定づけたんです。

挙句、日本国憲法第9条に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されているにも関わらず自衛隊が組織された。これはどこからどう見てもあきらかな矛盾だった。それなのに、新聞やラジオといったマスコミまでもが賛成にまわった。

そういう裏切りを度々体験して、僕は、教師や大人や権力の言うことは信用できないと思うようになった。思春期のトラウマが、その後の生き方を決定づけたんです。

反骨心と「なぜ」への執着。ジャーナリストという職業しかなかった

──田原さんは元々作家志望だったとお聞きしています。苦学して卒業されたのも早稲田大学の一文国文科。いつ進路を変更されたんですか。

田原 中学生の頃から作家になろうと思っていた僕がどうして文学を諦めたか。大学3年のときに加入していた小説の同人雑誌の仲間からこう言われたんですよ。

「努力というのは、文才のある人間が一生懸命やることであって、君のような文才のない人間が一生懸命やるのは努力とは言えない。それは徒労と言うんだ」と。

ちょうどその頃、文壇に石原慎太郎と大江健三郎がセンセーショナルに登場した。『太陽の季節』と『死者の奢り』。この2作品を読んで到底かなわないとうちのめされた。僕にはフィクションを作り上げるためのイマジネーションが決定的に欠落していたことを思い知らされたんです。

それで小説家を目指すのを諦めた。でも、その結果、進むべき方向が見えた。

──どういうことでしょう?

田原 小説家の才能がないと認めたら自分に何が向いているのかはっきりわかった。

僕は事実の探求に対しては執念深い。思春期に根を下ろした反骨心と「なぜ」への執着。それを活かせるのはジャーナリストという職業しかないと気づいたんです。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
最初は撮影助手。カメラを落としたり、フィルムの詰め替えに失敗、足手まといで使い物にならなかった

新卒で入社した岩波映画。社員のほとんどが左翼。面白い会社でした(笑)。

──憧れとは違う明確な目標を見つけながら、マスコミではなく岩波映画に入社したのはどうしてですか?

田原 身もふたもない話ですよ。NHK、朝日新聞、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、フジテレビ、東京放送(現在のTBS)、大阪毎日放送、北海道放送、ラジオ関東(現在のラジオ日本)、東京新聞といったマスコミ各社の採用試験に落ちまくり、最後、唯一、拾ってくれたのが岩波映画だった。社員のほとんどが左翼。面白い会社でした(笑)。

──岩波映画製作所は質の高い産業映画、PR映画、科学教育映画の製作で知られていました(1988年倒産)。田原さんはどんな仕事をされていたんですか?

田原 最初は撮影助手。でも、カメラを落としそうになったり、フィルムの詰め替えに失敗したりと、足手まといになるだけでまったく使い物にならなかった。それで日本テレビで放送していた『楽しい科学』という科学番組のアシスタントに異動になった。

──なるほど、そこでテレビ局との接点が生まれた。

田原 番組のアシスタントをやりながらシナリオや演出も担当するようになり、会社公認で放送作家のアルバイトもこなしているうち、1964年4月に開局する『東京12チャンネル』(現在のテレビ東京)への転職が決まった。岩波映画のプロデューサーが「本格的なドキュメンタリーを作るチャンスだ」と僕を後押ししてくれたんです。

当時の「12チャンネル」は誰も見てくれない“テレビ番外地”。危ない番組づくりで取材中に警察に2回逮捕

──いよいよそこからテレビ業界での田原さんの快進撃が始まるんですね。

田原 いや、はじめはいくら企画書を出しても一向にスポンサーがつかなくて番組が作れなかった。仕方がないから企画書を抱えて自分でスポンサーを探したんですよ。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
取材中に僕は2回逮捕された。それでも番組は放送、処分も受けなかった。12チャンネルには本当に感謝してます

──番組ディレクターが自らスポンサーを? コネクションがあったのですか?

田原 コネなんてない。「こういう番組を作りたい。この企画は御社にとっても絶対メリットがあります」と飛び込み営業をして歩いたわけ。

──過激な内容で伝説となった『ドキュメンタリー青春』や『金曜スペシャル』もそうして生まれたんですね。

田原 いまではテレビ東京も立派になりましたが、当時、12チャンネルは“三流”とか“テレビ番外地”なんて呼ばれてましたから、普通に番組を作っても誰も見てくれない。そもそも予算が全然ない。

じゃあどうするか。NHKやTBSや日本テレビが作れない危ない番組を作ればいいと、そう考えた。

12チャンネルも面白い局で、管理職や経営者たちもNHKやTBSや日本テレビと勝負するにはそれしかないと理解してくれた。

その頃は60年安保後の大学紛争や全共闘運動が盛んだった時代。取材対象も、新左翼の活動家、右翼の青年、少年院を出所したばかりの若者、米軍から脱走した兵士、新興宗教の指導者、余命半年の片腕の俳優、職業差別と闘うポルノ女優と、確信犯的にラジカルでアナーキーな題材ばかり選んだんですよ。

実際、取材中に僕は警察に2回逮捕されたんだけど、それでも番組は放送されて処分も受けなかった。12チャンネルには本当に感謝してます。

上司から「『電通』批判を止めるか、さもなくば会社を辞めてくれ」

──それだけ自由に仕事ができた12チャンネルを田原さんは42歳で退社された。なぜですか?

田原 調子に乗りすぎて現場のディレクターから外されたんです(笑)。

しかし、おかげで僕は活字メディアという新たな発表の場を得ることができた。全国で起きていた原子力発電所建設反対運動にまつわる問題を筑摩書房の『展望』という月刊誌で『原子力戦争』というドキュメントノベルにして連載を始めたんです。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
「電通は日本を中国やソ連みたいな国にしたいのですか?『言論の自由』はとても大事なことでしょう」

取材を進めていくと、反対運動の一方で、原発建設推進運動や正体不明の集会やシンポジウムがやたら開かれていることがわかった。これはどういうことなのかとその背景を調べてみると、実はそれらは住民運動の分断などを狙った撹乱戦術で、その背後に大手広告代理店の存在が浮かび上がってきた。

そこまで書いたら「こんなことを書く社員がいるテレビ局にはスポンサーをつけない」とついに電通が激怒して。そう、大手広告代理店というのは電通。後発の弱小局だった12チャンネルは電通が取り扱っているスポンサーからの広告収入が得られなくなったら間違いなく倒産してしまう。

当然、「電通批判を止めるか、さもなくば会社を辞めてくれ」と会社から迫られ、僕がそのどちらも受け入れずにいると、直属の上司が次々処分を受け、それで辞めざるを得なくなったと、そういうわけです。

電通専務に直談判「なぜマスメディアはあなた方を怖がるんですか?」

──つまり、テレビから活字メディアへ、放送局の社員という立場からフリーランスのジャーナリストへ活躍の場を移されたのはやむに止まれぬ状況に追い込まれてのことだったんですね。しかし、当時、出版社にとっても電通を取り上げることはタブーだったのでは? それでも書き続けたんですか?

田原 僕としてはどうしてもこの問題をこんな形で終わらせたくなかった。

そのうち朝日新聞から依頼があって、『週刊朝日』で連載することになったんだけど、1回目の原稿を送ったら全面書き直しに。電通からのクレームでした。

──再び絶体絶命の状況に追い込まれたんですね。いったいどうやってその窮地を脱したんですか?

田原 電通の広報担当の専務である木暮剛平さんを僕の親しい人が紹介してくれて、直接会って話すことになったんですよ。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受けるジャーナリスト・田原総一朗さん
面白いでしょう、一度の話し合いで、『タブー』だったはずの電通がそうではなくなったんですから

木暮さんはその後、電通社長、会長を経て相談役になった人。僕が率直に「電通をあらかじめ色眼鏡で見て書くつもりはない。電通の真の姿を世の中に知らせたい。なぜマスメディアはあなた方を怖がるんですか。むしろそっちの方が問題なんじゃないですか」「電通は日本を中国やソ連みたいな国にしたいのですか。言論の自由はとても大事なことでしょう」と訴えると、木暮さんはこう答えた。

「実は広告代理店業界は従来のやり方で仕事をやっていたのでは商売になりません。この業界をどういうビジネスモデルにしていけば生き残れるか、いままさに試行錯誤している真っ最中なんです。田原さん、どうぞ自由に書いてください」。

その言葉に偽りはなく、木暮さんは社内資料やデータも提供してくれた。面白いでしょう、たった一度の話し合いで、『タブー』だったはずの電通がそうではなくなったんですから。

【インタビュー後編はこちら】「住まいは、仕事さえできればそれでいい。べつにこだわりはないですね(笑)」現役最高齢ジャーナリストのライフスタイルとは

(取材・執筆/木村光一 撮影/加藤春日)

田原総一朗さん「全身ジャーナリスト」

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90歳の〈モンスター〉が「遺言」として語り下ろす。「朝生」で死にたい! なぜ僕は暴走するのか?
最高齢にして最前線にいる稀代のジャーナリスト、田原総一朗。
舌鋒の衰えないスーパー老人が世に問う遺言的オーラルヒストリー。その貪欲すぎる「知りたい、聞きたい、伝えたい」魂はどこからくるのか。
いまだから明かせる、あの政治事件の真相、重要人物の素顔、社会問題の裏側、マスコミの課題を、自身の激動の半生とともに語り尽くす。
これからの日本のあり方を見据えるうえでも欠かせない一冊!
ジャーナリスト
田原総一朗 たはら そういちろう
1934年、滋賀県生まれ。 1960年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。 77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。 98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年まで)。 『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。 また、『日本の戦争』(小学館)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』講談社)、『誰もが書かなかった日本の戦争』(ポプラ社)、『田原総一朗責任 編集 竹中先生、日本経済 次はどうなりますか?』(アスコム)など、多数の著書がある。
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