リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)

名人たちの芸に魅せられた夢見がちな少年が上京し、“計画なき計画”によって落ち着いた居場所とは

TBS『ぴったんこカン・カン』での安住紳一郎アナとの軽妙なやり取りや、TOKYO MX『5時に夢中!』での奔放かつ、芸事への深い愛情と教養が滲むトークで、多くの人を魅了する作家の岩下尚史さん。流麗な筆致で綴られた『芸者論』や『名妓の夜咄』は、東京の優れた芸者と直接触れ合ってきた岩下さんでしか書けない貴重な日本文化論です。

著述のみならず講演、テレビ、ラジオ、映画と多方面に活躍する岩下さんは、どのような人生を辿られたのか。インタビュー前編では、謎めいた作家の前半生を、住まいの変遷とともに伺いました。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
「男の子のくせに芝居など、将来、ロクなものにはならないぞ」と睨まれたものですが、実際、そのとおりになって親には申し訳ないことをしました(笑)

ウルトラマンや巨人の星には見向きもせず、惹かれたのは『初代水谷八重子』と『中村歌右衛門』

──岩下尚史さんは、どのようなお子さんだったのでしょうか。

岩下尚史(以下、岩下) 小学校から帰宅しても宿題はせず、ひとりッ子でしたから、テレビばかり見ていましたね。

しかも、当時はじまったばかりの「ウルトラマン」や「巨人の星」には見向きもせず、芝居の舞台中継あるいは名女優が主演する『文芸ドラマ』や『ホームドラマ』を、両親に苦い顔をされながらも凝視していたそうです。

そもそも私は因果なことに幼少の頃から、“名人の芸”に惹かれましてね。

それは幼稚園の友達の家で、鬼ごっこをしていた時のことでした。茶の間のテレビが点けっぱなしになっていて、ふと目を遣りますと、すらりと和服を着こなした女のひとが、肩を落として泣いているんですよ。

その後ろ姿を「綺麗だな」と思ったのをきっかけに、それ以来、新聞の番組欄などは読めませんから、テレビのチャンネルを回しながら、舞台中継らしいものがあると熱心に見るようになりました。

その翌年でしたか、今度は金色の襖を背にして、真っ赤な着物で真っ白な顔をした女のひとが、ちょうど私くらいの男の子の死体を前に、何ごとかを叫びながら大泣きに泣いているのを見て、怖いけれども“美しい”と感じたのです。

ずっとあとになって分かったことですが、私が五才のときに新橋演舞場で初代水谷八重子が『瀧の白糸』を出し、その翌年かな、歌舞伎座で六代目中村歌右衛門が『伽羅先代萩』を出しているのを知って、我ながら、あきれました。

歌舞伎も今でこそ伝統芸能ですが、昭和四十年代の熊本の堅気の家でしたから。小学生の私が舞台中継に熱中しているところを父に見つかると、「男の子のくせに芝居など、将来、ロクなものにはならないぞ」と睨まれたものですが、実際、そのとおりになって親には申し訳ないことをしました(笑)。

東京で出会った歌舞伎や新派、“芸能の世界”に魅了された少年時代

岩下 そのうち、どうしても“ホンモノ”を見たくなり、あれは小学五年生の時でしたか、「東京のおばさん(母の友人)のところへ遊びに行きたい」と親にねだりました。ひとりで飛行機に乗って新橋演舞場の一等席から、初代水谷八重子の『京舞』を見たときの感激は忘れられません。

これに味を占め、その翌年だったかなア、歌右衞門の『茨木』を歌舞伎座で見て衝撃を受け、以来、毎年のように秘密の上京を繰返していましたが、学校では芝居の話は一切しません。周囲から浮かないように同級生たちとはアイドルを語り合い、水泳部の長距離選手として厳しい練習に耐える毎日でした。

勉強も嫌いでしたね。というより、みんなと同じことをしなければならない学校に行くのが苦痛でした。

宿題はしたことがなく、授業のときは退屈しのぎに、親が家に飾っていた文学全集から抜き出した泉鏡花や永井荷風の小説本を読んでいましたが、不思議なことに、教師に叱られたことはありません。

ひとり息子の私しか育てたことのない母は、ずいぶん後になって、「お前の頃とは違って、最近の子供たちは宿題があるから大変なのよ」と言ったくらいで(笑)。

それが高校二年生の頃から、卒業後の進路について不安をおぼえるようになりましてね、悩むというよりは途方に暮れて体調を崩し、学校も休みがちになりました。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
抜かりだらけの人生で唯一の“アタリ”でした、連帯感の薄い私にしてはめずらしく、母校愛だけは人一倍ございます

情報の少ないインターネット以前の時代、地方の少年が進路を見出したい“一冊の本”とは?

──不安と申しますと。

岩下 だって今のように情報がありませんもの。どんな職業があるのか、進学するなら大学はどこかなどを相談する兄も姉もありません。田舎ですから親や教師に聞いてもよく分からない。

ですから、インターネットの普及した現在の若い人たちは心から羨ましいと思います。なんでも自分で調べられるし、一流の教授による動画で独学も可能ですしね。情報に関しては都会と地方の格差はありませんから。

いよいよ高校を卒業する段になって、両親からは「お前のような役立たずは、大学へでも行くほかはない」なんて。一応、地元の私大を受験して合格はしたものの、行きたくないと両親に告げますと、「何もせず、のらりくらりされたら外聞がわるいから、とりあえず、大学の予備校に行け」と言われて通いました。未だ「引き籠り」という便利な俗語のない頃ですからね。

でも、もとより志望校がないので、翌年も受験しなかった私に業を煮やした両親が、「あと一年は待ってやるけれども、来年の春に入学しなかったら家から追い出す」と最後通牒を出されたのです。

どうしたものかと案じているうちに夏になり、ふと立ち寄った本屋の店先で、薄藍色の“新古今和歌集”を撮影したカバーが眼に入りました。

『折口座談』と題された本の著者が戸板康二(歌舞伎評論家)とあるのを見て、歌舞伎のプログラムの解説者として馴染みでしたので、おおかた芝居の本だろうと買い求め、帰りの電車で読み始めると面白くて堪りません。それは折口博士(民俗学者の折口信夫)の観劇に同行した時の聞書きでした。

本の紹介文に折口博士は「國學院の教授」と書かれていたので、現存の学者だと思い込み、このひとの講義を受けたいと、その夜から受験勉強らしいことを始めたんです。

翌春に試験を受けたら運よく合格したので、ひとよりは二年遅れての、上京遊学をすることになりました。

ディスコに、スキーとユーミン。長い悪夢から覚めたような80年代のキャンパスライフ

──上京後の岩下さんの大学生活はどうでしたか?

岩下 二年遅れたのが幸いして、ちょうど田中康夫著『なんとなくクリスタル』(第84回芥川賞候補作品)の世界が展開しはじめた80年代初頭の東京での大学生活は、私の享楽的な性格にはぴったりで、しかもセゾンが開発した当時の渋谷にある國學院のキャンパスでしょう、まるで長い悪夢から覚めたような気分でした(笑)。

テクノカットに刈り上げて、臆面もなくワイズやギャルソンを着用し、渋谷から青山、霞町から六本木にかけてのビストロやカフェバーに出入し、界隈のディスコで夜明かしすることもありました。

大学の先輩や友人の車で夏は軽井沢、冬はスキーと、ユーミンの作品に教えられた通りの大学生活をしながらも、そのいっぽうで、少年の頃から景仰する中村歌右衛門の後援会に入り、中高年の上流婦人や新橋赤坂の老妓たちに可愛がられるという、控え目なようで高慢臭い学生だったかも知れません。

幸せなことには古典に通暁された先生方に恵まれ、知識偏向ではない、心の発展開発に向けられた教えは、凡庸な私の心にも根を張って、数十年を経たのちに、下手ながらも筆執る身となることが出来ました。

國學院を選んで上京したことは、ぬかりだらけの人生のなかで唯一の“アタリ”でしたから、連帯感の薄い私にしてはめずらしく、母校愛だけは人一倍ございます。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
社長が「色んな招待が届くが、夜に出掛けるのは面倒、これからは俺の名代として見ておいで」と

最初の住まいは、世田谷の木造二階建て四畳半の下宿。ご近所には最晩年の笠置シズ子

──上京して最初のお住まいは覚えていらっしゃいますか?

岩下 はい。そんな浮ついた生活をしていながら、住んでいたのは世田谷の四畳半の下宿ですからね。いかにもバブル前夜のバカな大学生でしょう。

木造二階建ての共同炊事場の窓から、笠置シズ子のアメリカ風の邸宅が見わたされ、最晩年のブギの女王が庭で日光浴するのを眺めながら、ヤカンで湯を沸かしたのを思い出します。

それでね、この下宿が私に幸せをもたらしたというのは、國學院で初めての講義に出た日にね、付属校から上った、いかにも東京のお坊ちやま然とした爽やかなスポーツマンが私を見つけて、「さっき配布された住所録で見たけど、うちと近所だから遊びに行っていい?」と声を掛けられ、住まいが取り持つ縁のおかげで、たった一人で上京した私が、無二の親友を得ることが出来たのです。

東京育ちの彼にとっては下宿というのが珍しかったようで、毎夜のように訪れては、他愛もない話に笑い転げて夜明けに帰るのですが、週末になると彼の御両親に御宅に招かれて晩御飯を頂いたり、時には泊めて頂いたり、家族旅行にも御一緒したり、まるで実の息子のように面倒を見て下さいました。

あかの他人の私をまるで身内同様に受け入れて下さった親友の御家族のおかげで、ひがんだり、孤独を感じることなく、心豊かな学生生活を送ることが出来たうえに、卒業後も変ることとなくお世話になった、ありし日のおじさんとおばさんにはお礼の言葉もありません。

このように幸運をもたらした下宿でしたが、内風呂が無く、朝からシャワーが出来ないのが不満で、半年も経たないうちに、その御家族とは徒歩圏内のアパートに移りました。

駅への行き帰りには、中高生の頃にファンレターを出して御返事を頂いた佐藤愛子先生の御宅の前を通るのですが、お玄関に立つ勇気は無いまま、その四年後に就職が決まったので、駅に近い、前よりマシなアパートに越しました。

花柳界の劇場に身を置き、銀座一流の人物たちに接して生きる日々

──卒業後に就職された銀座の劇場「新橋演舞場」では、具体的に何のお仕事をされていたんですか?

岩下 申し上げるほどのことは、しなかったンですよ(笑)。

出来損ないの私を拾って下さった岡副昭吾社長は、劇場に隣接する料亭・金田中の御先代でしてね、銀座育ちの慶應ボーイで、国文学と美術と芸能に造詣の深い、瀟洒で厳格な紳士でした。

はじめて出勤した日のことです。

社長は五十幾つだったとおぼえますが、「色んな会の招待が届くが、夜に出掛けるのは面倒だから、これからは俺の名代として見ておいで」と舞踊家の武原はんの舞の会の招待券とお祝の包みを託されました。そうして当時の文化勲章受領者、文化功労者、人間国宝などの自主公演に遣わされたおかげで、“明治大正生れの名人上手の晩年の至芸”を堪能する役得に恵まれたのは幸せでしたが、眼と耳ばかり肥えることになり、あとになって苦労をしました。

そもそも「新橋演舞場」は大正十四年に新橋の料亭と芸者衆とで創設しましたが、昭和十五年に興行を「松竹」に任せて以來、いわゆる土地と建物とを所有する会社でした。私は劇場に勤めながらも、演劇の制作や営業の苦労や喜びは知らずに過ごしたのです。

最初は会社の総務課でビルの管理を見習い、あまり役に立たないことが知れたのでしょう、まもなく株式の担当として年に一度の株主総会を任されたくらいで、二十代の新入社員にしては気楽でしたね。

昭和の暮れ方のことですから、演舞場の株主さんである新橋の料亭や芸者屋(関西でいう置屋)も多く、そうした御主人や女将さんや芸者衆、あるいは銀座の老舗のお年寄りたちと株式の業務をとおして接する機会をかさねていきました。

そうしてどうやらこうやら、界隈のうるさ方におぼえて頂いたところへ、社長から、「そろそろ、東をどり(新橋花街主催の舞踊公演)の制作をしてみないか」と言われたのが、二十八の時だったと思います。

※東をどり=大正十四年以来、新橋芸妓の稽古の成果を新橋演舞場の舞台で披露する舞踊公演。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
私は呆然とするばかりでした。その喪失感は今も続いて消えることはありません

入社早々の仕事の相手は、明治大正生れの元老格の新橋芸者と“人間国宝の家元師匠”たち

──花柳界のしきたりなど、若き日の岩下さんでも戸惑うことは多かったと思います。

岩下 そうでもなかったンですよ(笑)。

既に申し上げたように大学生のときに、幼い頃から神と崇めていた六代目歌右衛門の後援会(成駒会)に入っており、幼馴染でいらっしゃる声楽の先生に手を引かれて世田谷の御宅へも時々伺っては、その静かな威厳に打たれ、すでに“一生分の緊張”は済ましていたので、それ以来、どなたの前に出ても平常心で居られましたから。

明治大正生れのお年寄りは、芸者衆に限らず、俳優さんや舞踊声曲のお師匠さんも、こちらが知ったかぶらず、素直にさえしていれば、御機嫌よく、接して下さいました。

ただ、今のように手取り足取り、くわしく説明して教えて下さることはなかったですね。

なにごとも、そばで見ておぼえ、いちいち質問せずに、手ぎれいに用を足すことが出来なければ、見向きもして下さらない。やる気があるかどうかなど関係ない、その場で役に立つか、立たないかだけですからね、きっぱりしたものでした。

それからね、当時の梨園や舞踊声曲の世界は、血筋ではない人が、よそから来て修業に堪え、天性の才能と魅力を発揮して、その社会の名人として認められた方々が多かったンですよ。

芸者衆もそうですよね、少女の頃に地方から来て奉公し、銀座の水に馴染んで初めて名妓と謳われたわけで、それは料亭の御主人や女将さんも同じで、地方出身者である私も下らない劣等感を抱かず、銀座で伸び伸びと働くことが出来たのは幸運でした。

幼少の頃から“憧れた世界”の終焉、戦後育ちの台頭した“平成の喪失感”

岩下 ところが、昭和天皇の崩御のあとさきに、“梨園花街のお年寄たち”が揃って彼岸へ旅立たれました。

「お前さんに教えておくから、あとを頼みますよ」と言われ、その気になって録音機をかたわらに、花柳界のみならず銀座に関する昔ばなしを聞き取っていた私は呆然とするばかりでした。その喪失感は今も続いて消えることはありません。

さらに、平成五年の細川連立内閣のときに、会合に料亭は使わないという内触れが出たそうで、東京の主だった花柳界は破壊的な不景気を迎え、新橋も例を洩れませんでした。

後継者となった世代の人たちには敬意を抱くことが出来ず、会社の内外においても年上の人と、ぎくしゃくすることが多かったですね。

世代交代によって演劇の傾向も変わり、そろそろ潮時だなと思い、社長に辞表を出した時には、「何が不満なんだ」と、入社して十五年目で初めて怒鳴られましたが、ごもっともだと思います。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
未だ何者でもなかった私には、そうした紳士として嗜むべき教えは無用であることに気づいたのです

仕事でご一緒するのは“一流の方々”。だから、私、世間が馬鹿に見えて仕方なかったんですよ。

──社長の名代として、若い頃から一流の芸をご覧になっていたにもかかわらず、新橋演舞場をお辞めになったのですね。

岩下 ありし日の岡副昭吾社長は昭和五年のお生まれで、御当代が私とおない年、つまり父親を仰ぎみるような存在で、癇癖の強い方でしたが、不思議と私にはおやさしかったですね。怒られたのは辞表を出した時だけでした。

それこそ、銀座の来歴から新橋花街の仕来り、和服と洋服の仕立て方、宴会の心得、美術品の見方では無くて買い方、芸者やホステスの品評、役者や芸人の良し悪しなど、じつに細かく具体的に教えて下さり、とにかく私をひとに見えるところまで育てて下さいました。

現在、私が講演やテレビで喋ったり、文章に書いたりすることの多くは、亡き社長の口真似なのです。

しかし、今から二十三年前の、未だ何者でもなかった私には、そうした紳士として嗜むべき教えは無用であることに気づいたのです。

三十あとさきの頃から、社長の威を借りて御一緒するのは各界一流の方々が多く、若い頃は未熟ですから、自分まで偉くなったような勘違いをして、世間が馬鹿に見えて仕方が無かったものです。

でも、さすがに四十を目前に自分が馬鹿であったことに心づいて、御恩のある岡副社長のもとを去ったのですが、その後の苦労と言ったら、思い出したくもありません。

「演舞場の企画室長さんですってね、どうぞ、ながくお住まいください」

岩下 今から思えば、新橋演舞場を辞める三年前に、世田谷のアパートから、浅草芝崎町の路地のなかほどの新築の賃貸マンションに越したのも、“計画なき計画”のあらわれだったのかもしれません。

と言うのも、それまで馴染みのなかった浅草に住もうと思ったのは、久保田万太郎(昭和期の文人)と川口松太郎(小説家)を生んだ風土に触れ、なにか創作でもしようとする心の兆しであったかもしれません。

雑誌で見つけて、五階の角部屋を借りたのですが、昼寝をしていると階下から三味線の根〆が聞こえることがあり、半月ばかり経た頃に、大家と名乗るひとが私の部屋を訪ね、「演舞場の企画室長さんですってね、どうぞ、ながくお住まいください」と差し出された名刺を見ると、長唄の家元さんでした。

二十五年ほど前の話で、現在は隣りにタワーマンションが建っているそうですが、文学散策には恰好の立地で、上野から下谷、千束から吉原、田原町から蔵前、浅草寺から隅田川を渡って向島から亀戸など、飽きることはありませんでした。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)
株主さんの料亭はすべて高度経済成長期に建てられた近代数寄屋でしたから、出入りするうちに自然と眼が肥えちゃったんですね、因果なことに(笑)

“なまなか”のことでは、満足できない岩下先生の『住居の理想』

──そんなに気に入っていたのに、引っ越してしまったんですか?

岩下 前に話した國學院時代の親友のお姉さんから「三軒茶屋駅の近くに分譲マンションを買ったのだけど、転勤で海外に行ってしまうから、その間住んでほしい」と頼まれたんです。

ちょうど新橋演舞場を辞めた時でしたが、無職のひとり暮らしには身分不相応な3ⅬDKの物件に、格安の家賃で納まりました。

それでもね、満足していたかと言えば、そうでもなかったんですよ。と言うのは、中学に上がったときに、親が私のために六畳の部屋を建て増しましてね、机はもちろん、ベッドも本棚も飾り棚もすべて、私に選ばせてくれました。

それこそ、友達が羨むような“小さな城”を持っていたので他人の家、つまり借家に住むというのが、しっくりしなかったんですね。

それと、上京して勤めたのが新橋の花柳界のなかの劇場でしょう、お仕えした社長のお店である金田中(新橋料亭)をはじめ、新橋演舞場の株主さんである界隈の料亭はすべて高度経済成長期に建てられた近代数寄屋でしたから、出入りするうちに自然と眼が肥えちゃったんですね、因果なことに(笑)。

ええ、安月給の勤め人のくせにねえ、困りますよ、“なまなか”のことでは満足できないんですから。

それこそ、新興数寄屋の宗家たる吉田五十八(昭和期の建築家)の代表作が新喜楽(明治8年に創業した築地料亭)さんでしょう。その高弟の今里隆が金田中、おなじく板垣元彬は松山(新橋料亭)というように、大先生たちが設計なさった格式があり瀟洒な料亭のすばらしさを、若輩で甲斐性のない段階で知ってしまいました。

その不運の報いで、大観や玉堂とまではいかなくとも、清方や深水の軸の似合う「華奢造りの床の間」とやら、「漆塗りの床板」や「銀砂子の唐紙」などにあこがれましてね。

つまりは、『住居の理想』が現実と大きく懸け離れていたわけですよ。それが五十を過ぎる頃まで続きました。

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)

次回インタビュー後編では、お住まいがあった青梅の築100年の古民家、そして岩下尚史先生の考えるシニアライフについてもお話を伺います。

【インタビュー後編はこちら】「ウチに来ましょうよ。リアリティを付けるために」43歳からの裏方としての再スタート


執筆/横山由希路 撮影/加藤春日

リフォームメディア「ハピすむ」のインタビュー取材を受ける文藝家・岩下尚史さん(撮影・加藤春日)

岩下尚史さんの著書『花柳界の記憶 芸者論』 (文春文庫)は好評発売中!

花柳界、芸者、三業地…文字としては馴染みがあっても、実態は殆ど知られていない世界。

長年新橋演舞場に身を置き、数々の名妓たちと親交のあった著者が、芸者の成り立ちから戦前、戦後の東京の花柳界全盛の時代までの歴史と変貌を細やかに描写。

処女作にして和辻哲郎文化賞を受賞した、画期的日本文化論。

作家・國學院大學客員教授
岩下 尚史 いわした ひさふみ
1961年、熊本県生まれ。國學院大學文学部を卒業し、新橋演舞場株式会社へ入社、企画室長を務める。東京の花柳界を調査研究し、社史『新橋と演舞場の七十年』を編纂。退職後の2007年に『芸者論:神々に扮することを忘れた日本人』で第20回和辻哲郎文化賞を受賞。梅原猛、平岩弓枝の推薦により、日本文藝家協会の会員となる。著作に『芸者論』、『名妓の夜咄』、『見出された恋』、『ヒタメン・三島由紀夫若き日の恋』(すべて文春文庫)、『大人のお作法』(集英社インターナショナル)。
【お住まい周辺】
無料一括最大3社
リフォーム見積もりをする